「公平な戦い」の定義とはなにか? 甲子園決勝の慶応の応援を受けての雑考。
「人工的な公平さ」を導入することで、「形式上はフェア」にみえる戦いを子供たちにさせることが「子供たち」のためなのか?
甲子園の決勝で「慶応のうるさい応援は不公平。あれでは仙台育英の選手が動揺してしまう。可哀そう」というインターネットとTVの盛り上がりが印象的なこの夏。
私は「世の中は不公平、というのも子供たちが勉強すべき原則であり、それを人工的に除去してしまうのは教育上よくない。よって、このままでよい」と考える。
どちらにも一理あり、これは「哲学の問題」である。
(応援の制限派)
慶応が金と同窓会の力を使って、すごい応援をするのは、それらを持たない仙台育英には不公平。
高校生がいつもの力を発揮できないは可哀そう。人生で一度だけの甲子園の経験に選手以外が介入すべきでない。
(自由競争派=わたし)
甲子園も「大事な教育の場」であるべき。
その教育の場で「競争制限すべき」ではない。「教育の場」はなにを教育する場か?
金や人脈を活用する相手による「不公平な競争」は、世の中の原則。当事者以外が有形無形な圧力をかけてくるのも社会の一面。
「社会の現実」を肌で感じた仙台育英の選手は重要な経験ができたのでは?